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新体育館の中に雪が舞う──。そんな七不思議的な話が高高にもあった。
平成元年(1989年)卒の証言によると、屋根に近い天窓が開いており、粉雪が舞っていた。竣工から日が浅く、窓の閉め方がわからなかったのか、窓ガラスがなかったのかは不明だ。
信じるか信じないかはあなた次第。
高松高校では昔、冬に恒例のマラソン大会が開催されていた。学校をスタートして、近くにある紫雲山のハイキングコースを走り抜け、校門まで戻ってくるコースだ。それだけでも相当疲れるはずだが、1965年の冬はさらに過酷で、歴史に残る悲惨な大会となったようだ。
以下、昭和42年(1967年)卒のアンケート結果を掲載する。
「号砲一発、男子600人余りが一斉にスタート。死に物狂いで走って帰ってくると体育の先生が『着順なし!』と叫んでいた。
『何事か?』と思ったら、フライングがあり、先生が先生が制止するのも聞かずに皆が行ってしまったとのこと。
冷静に再スタートして、後から帰ったわずかな生徒だけが入賞した。何と歴史に残る愚行か。
卒業後も国内・国外を問わずあらゆる分野で活躍する高高卒業生。
彼ら、彼女らのものの見方や考え方、生き方に直接触れて生徒の知的好奇心や想像力を喚起するために、2002年に「玉翠グローバルアカデミー(GCA)」を開始した。
高松高校の前身である香川県立高松中学校と高松高等女学校時代は名士講演会として始まり、2校の統合後は先輩講演会としてその伝統を引き継ぐことに。そして02年に各実業界で活躍している先輩を招いた学術文化講演会として生まれ変わった。
これまでに大学の教授をはじめ、民間企業の取締役相談役、映画監督、国際弁護士、国際刑事警察機構(ICPO)総裁など多様な分野のトップランナーが講演。講演者を選ぶのは学生の投票で決まる。
旧校舎時代には2つの体育館があった。旧体育館と新体育館だ。
旧体育館では柔道部や剣道部、新体育館ではバレーボール部やバスケ部、卓球部がフロアを独占していた。一方、バドミントン部はというと、なぜかステージの上で練習していた。
昭和45年(1970年)卒は次のように振り返る。
「コートはたった1面しか取れず、恐らく全国一狭い練習場だっただろう」。
天井には3枚の布の垂れ幕が張ってあるため、高い球を打つこともできない。ラケットを降り遅れて高い球になると、シャトルは垂れ幕に当たり垂直に落ちてくるか、幕の裏に隠れて落ちてこなくなるのだ。長いさおで突く光景も珍しくなかった。
フロアを広々と使うバレー部の練習と重なる時には、ボールがステージ上に飛び込んでくることも。
そんな制約の多かったバドミントン部だが、昭和44年(1969年)卒は四国大会で3位になるなど強豪校として名が知られていたようだ。
近代的な校舎の先駆けとなった高松高校の現校舎。1988年1月、3階建ての新体育館の落成式を皮切りに、91年に5階建ての新校舎・玉翠会館、93年に自転車置き場やテニスコート、地下駐車場、95年にセミナーハウスや屋上プール、部室棟が続々と完成した。
一方で、旧校舎の解体も同時並行で進んだ。91年に旧校舎(旧高等女学校校舎)が解体されている。つまり91年は、新校舎と旧校舎が併存するタイミングがあった。南側(赤十字病院、県庁)に新校舎、北側の現在の第1グラウンドに旧校舎があった。
当然、卒業生の中には、完成していくピカピカの新校舎を目の前にして忸怩たる思いをした世代がいる。それが平成3年(91年)卒だ。
91年1月15日に新校舎が完成したため、実質、卒業までのわずかな時間しか新校舎を体験できなかったという。
「もう老兵去るのみという感じで、母校から強制的に追い出されたような寂しさの中で大人になった」。
平成3年卒の女性の1人はこう語る。さらに新校舎の工事が旧校舎で授業を受けていた学生たちを悩ませたようだ。
一方で、同じ平成3年卒でも補習科で浪人を経験した生徒は、新校舎を1年体験できた。冷暖房完備の大教室。天と地ほどの差で、現役合格者の平成3年卒は補習科を羨ましがっていたという。
ただし、先の女性は最後にこう締めくくった。
「美しい自慢の校舎、私は大好きでした」。
他校の模範となる真面目な印象のある高高生だが、実は熱い一面も持ち合わせている。
1990年代のバブルが崩壊する局面でのことだ。突如「俺たちの青春を返せ〜!!」「そうだ〜!!」という大きな叫び声が、校舎に響き渡った。応援団の団員たちが、プラザにあるらせん階段の各階から、ゲリラ的に若き主張を始めたのだ。
団員が何に対して主張をしたのかは定かではないが、生徒たちは大盛り上がり。この騒ぎを鎮静するべく先生たちは躍起になり、団員たちの首根っこをつかまえて、階段の下に思い切り引きずられたのだった。平成6年(1994年)卒のアンケートから分かった。
一言に文化祭と言っても、まさしく真面目なものから、本人たちは真面目だが周囲からは不真面目に思われるものまで、その時代ならではの多様な展示やイベントがあった。
1965年頃はベンチャーズというグループが起こしたエレキブームの真っ只中で、高高の文化祭のステージにも開校以来初となるエレキバンド「バチェラーズ」が登場した。メンバーには現玉翠会会長の姿もあったとか。
また、いつ始まりいつ無くなったのか定かではないが、少なくとも80年頃には前夜祭名物「ミス高高」が催されており、男子生徒が女装し、その美しさを競い合っていた。
85年頃には生徒会主催で、40年近い生徒会の歴史をまとめた「歴史of生徒会」の大展示を行い、教員やOBはもちろん、生徒からも絶賛を受けたようだ。
そして近年に入ると、ピロティーの階段下から女子生徒の下着を覗こうとする輩が続出。その騒動のせいで、2000年代後半の文化祭では、目隠しのために階段周りを段ボールで取り囲むようになったとのことだ。
修学旅行といえば、2年生にとって大きなイベント。女子と話したことがない男子陣は、夕食時の異性の私服を見ては大変ドキドキした記憶があるのではないか。
そんな修学旅行だが、実は年代によって行き先が変わっている。その変遷を追ってみよう。
そもそも修学旅行はいつから始まったのか? アンケートや過去のプログラムによると、1950年代後半頃から始まり、70年くらいまでは広島、宮島、鳥取など中国地方が多かったようだ。
その後、富士山やアミューズメントパークの「富士急ハイランド」を経由して信州方面を目的地とする時代が続く。
そして、時代が平成に変わった90年頃からは東京方面まで足を伸ばすようになった。
また、近年は北海道という選択肢も登場。平成28年(2016年)卒のインタビューから、「多くのカップルが朝の散歩デートを楽しんだ」というほのぼのとした話を聞くことができた。
うらやましい限りだ。
高高生が集まる場所はうどん屋以外にもある。特に集中しているのが商店街だ。中でも常磐町商店街の瓦町側にある「三びきの子ぶた」(通称、三ぶた)は、女子生徒を中心にたまり場となった。
1948年に果物屋として産声を上げ、その後、新鮮なフルーツを使ったジュースやフルーツサンド、パフェなどを提供している。平成3年(1992年)卒のアンケートによると、三ぶたではその日の降水確率によってソフトクリームの値段が変わるという一風変わったサービスを実施していた。降水確率が高くなるほど値段が下がるので、雨の日、部活帰りにソフトクリームを買いに行っていたようだ。
一方で2000年代になり、高高生の憩いの場であった飲食店は続々と閉店した。南新町商店街のマクドナルドはその一つだ。部活帰りに友達とくだらない話で花を咲かせたという卒業生は少なくない。10年に閉店した。
そして、「ええぶん」「うまいぶん」の呼び方が特徴的だった高高前のラーメン屋「ごんな本店」も09年に閉店した。
1960年代から、女子生徒の体操着として定着したといわれるのがブルマだ。密着型で、足の付け根まで露出する。高松高校の女子生徒もブルマをはいていた時期がある(高高のある世代では「フリーマ」とも呼ばれていた)。
特に高高では、高松工芸高校に隣接する第2グラウンド(通称2グラ)までの一般道路を、ブルマで駆け足しながら向かうという恥ずかしい思いをしていたようだ。さらには、工芸高校の男子が教室のベランダにずらっと並び、ブルマ姿の女子生徒を見物するという事態も。
90年代に入ると、社会的な流れを受け全国でブルマが徐々に使われなくなった。高松高校でも90年代後半に消滅した。