高高がいな人 – 眞鍋邦大

高松高校 眞鍋邦大
高松高校 眞鍋邦大

眞鍋 邦大

龍谷大学経営学部 特任准教授

東京六大学野球、リーマンショック、渡米、小豆島への移住、起業、地域おこし──。
あまりにも華麗で、そして波乱に満ちた人生を送ってきたのが、眞鍋邦大氏だ。

様々な体験を経ながら、常にあきらめず「挑戦」を続け、そして今また「大学人」として新たな仕事に挑んでいる。これまでの人生の歩みと、飽くなき挑戦への気持ちを聞かせてもらった。


── 高高卒業後のこれまでの人生の歩みについて、ざっくりと教えてください。

東京大学経済学部に入学して、同大学院の新領域創成科学へ進学。そしてリーマン・ブラザーズに就職しました。
リーマンショックの後に渡米。英国の証券会社を経て、2012年に小豆島へ移住しました。そこで起業して、地域創生に携わり、17年からは兵庫に拠点を移して、働きながら博士号を取得。22年に龍谷大学経営学部の特任准教授に就き、それ以外にもワールド・ワンという会社の役員や、食べる通信の仕事を兼務しています。

── 色々な人生すぎて何から質問すればよいか迷います。まずは眞鍋くんを語る上で欠かせない「野球」から聞いてみたいと思います。

野球は小学校から始めました。もともと体は小さいしうまくなかったのですが、だんだん野球が面白くなってきて。高校2年生の時に大学でも野球やろうと決めました。どうせやるなら東京六大学。神宮でやりたいと。

── 神宮での野球のために東大を目指したと。

そうです。早稲田や慶応は甲子園経験者がたくさんいるから試合に出場するのは難しい。しかし、リーグで6番目にめちゃくちゃ弱い大学があって、そこなら出場できるかも――。それが東大でした。とはいえ、高2の時の成績は学年でも下から数えた方がはるかに早く、普通なら東大を受けるようなレベルではなかったです。

野球に打ち込んでいたので、現役では当然合格できずに浪人しました。補習科を経て、何とか東大に入れたのですが,「神宮で野球をしたい」という思いがなければ、勉強しようというモチベーションは続かなかったでしょう。

── 東大野球部ではどんな感じでしたか。

大学では運よく、1年の春から卒業までずっと試合に出られました。野球の邪魔になることはしないと決めていたので、バイトはしないし授業にも行かないし、就職活動もしませんでした。いま考えたら、ひどすぎる(笑)。4年生の秋に野球部の活動は終わりましたが、当然、留年して。

野球は一生懸命頑張って手応えはありましたが、まがりなりにも日本の最高学府に入学したのに、全く勉強しないままに社会に出てよいのかと思い返して。そこで、大学院への進学を決めました。

院では環境と金融を真面目に勉強していたのですが、結局そこでも後輩から求められて野球部の助監督をやることになります。高高から東大を経てプロになった松家くんがいた時代です。大学院の生活はそんな感じで終わりました。

── リーマン・ブラザーズを就職先に選んだ理由は。

単純に、早く生活力を付けたいというのが就活の大きな軸だったからです。浪人や留年、大学院進学で、人より4つ遅れ。当時長く付き合っていた彼女がいて「早く結婚したい」と思っていました。そこで日本企業よりも給料がいい外資系を目指します。いつクビになるか分からないけど、頑張れば報酬も実力で上げられる。

リーマンは当時、誰も知らない会社でした。サラリーマンの「リーマン」と間違われるほどの知名度で。社員はよく働き、よく遊ぶ「毎日合コンしてます」みたいな乗りの人が多い。香川で生まれ育った田舎者で、野球しかしていない硬派でしたから、会う人みんな軟派に見えて合わないと思ったのですが、自分の新しい世界を開くには真逆な会社の方がいいと思って、リーマン・ブラザースを選びました。2005年のことです。

── では、入社して割とあっという間に08年のリーマンショックを迎えたと。

08年9月15日に経営破綻を迎え、翌日からはクレームの嵐でした。全国の金融機関から電話が鳴りやまない。我々も状況が分からないし。謝り続けていたら1カ月が過ぎた感じです。

リーマンショックが起こったのは、私が30歳になる年でした。実はリーマンショックの前から、30代をどう生きようかと考えており、やりたいことが2つありました。1つは海外経験です。外資で働いているにもかかわらず、英語が全然できないことにもったいなさを感じていました。そして2つ目は、もう一度スポーツに真剣に関わることです。
突然のリーマンショックで、家族がいる人であれば転職して生活を支えないといけません。しかし当時、自分は独り身だったので自由に選択できる。これはチャンスだと捉えて、海外への道を決意しました。

一番いいのは働きながら海外で暮らすことですが、リーマンショックでどこも失業率が高くて雇ってくれません。そんななか、中日や楽天で監督を務めた星野仙一氏の「ホシノドリームズプロジェクト」に出合いました。スポーツビジネスに興味がある日本の若者を、年間5人ほどアメリカのプロチームに派遣して運営を手伝うプロジェクトです。渡航費と生活費が支援されるというのです。

「これは私のためにあるプロジェクトだ」とすぐに飛びつき、応募したところ、無事合格。09年2月に渡航しました。

── どの程度滞在したのでしょうか。

観光ビザの関係で3カ月間です。ただ、米国に行って数日して、「自分の力でどれだけ海外で挑戦できるのか試してみたい」と思うようになりました。そこで、米国滞在中にマイナーリーグを含めた約200チームのGMに、片っ端から「米国のスポーツマネジメントを学んで日本に還元したいのでぜひ雇ってほしい」という主旨のメールをしました。すると、唯一、ウエストバージニア州にある、1Aより下のルーキーリーグのGMが反応してくれたのです。それでいったん帰国を挟んで、さらに3カ月ほど、今度は何の後ろ盾もなく運営を手伝いました。

その後、日本に完全に戻ってきたのが09年8月です。直後に東大野球部の監督の人事があり,手を挙げましたが,結局なることはできず。渡航で家も引き払っていたのでこの時点で住所不定、無職です。お金も稼いでなかったのでさすがに職に就かなければいけないと思い、10年2月に英国の証券会社のロイヤルバンクオブスコットランド(RBS)の日本支店に就職しました。

── そこで2年働いて、いよいよ香川に戻ることになったわけですね。その理由は。

きっかけは3つです。東京で働いていた頃は、マスメディアの情報を信じきっていました。「商店街はシャッター通りになり、田畑は耕作放棄地であふれている。地方は衰退、疲弊している」という情報を鵜呑みにしていたのです。しかし、渡米の準備のため1カ月くらい香川で過ごした時に、「東京よりも笑顔が多い」ことに気づきます。心が豊かな地方の魅力を知りました。

もう1つのきっかけは 11年の東日本大震災です。震災を機に、安全や食の確保が優先されるパラダイムシフトが起こると思っていました。具体的には、子どもが伸び伸びと暮らすためには田舎の方がいいといった「うねり」が今後来るだろうと。しかも震災は東日本で起こったので、西日本が見直されるタイミングが来るはず。中でも香川は瀬戸内海で暮らしやすいため、きっとアクションがあると、何となく思いました。

そして最後は震災の年に大阪維新の会が府知事・市長のダブル選挙で圧勝したことです。あの結果に刺激を受け、変革を求める人は増えるのではないかと思い、会社を辞めました。

ポン菓子ヒットでテレビに取り上げられる

── なぜ移住先に小豆島を選んだのですか。

小豆島観光協会が当時始めていた「小豆島ガール」のブログを見て、面白そうだと思ったのがきっかけです。「話が聞きたい」とメールしたら「いいですよ」と返事をくれて。それで現地に行きました。観光協会から20代の女性を紹介され、昼ご飯を食べにいくことになり、私は「これからは地方の時代が来る」と熱苦しく話したのを覚えています。すると「知り合いの50歳くらいの移住者と会ったらどうですか」と言われて。

紹介が紹介を呼び、11~12月に何度も再訪しました。毎回、「地域おこしをしたい」と熱く語るたびに、「それなら島に来い」と勧められて。その言葉をもらったので、年明けにRBSを辞めて、12年2月に小豆島に移住しました。

── 移住後、どんなことから始めたのですか。

小豆島に行った最大の理由は地域おこしです。しかもどうせやるなら起業しようと決めていました。小豆島はオリーブや観光で有名です。しかし、そうめんやしょうゆ、つくだ煮など産業として成り立っているのに、県民ですらあまり知らない特産品がたくさんありました。この小豆島のポテンシャルをビジネスにつなげられると考えていました。

そして株式会社459(しこく)を創業し、カタログギフトを始めるわけです。その中でも私の代表的なビジネスとなったのが「ポン菓子」です。米に砂糖をまぶしてポンした美味しいお菓子ですが、斜陽産業でもはや道の駅でしか売られていない。でも美味しいし、やりようによっては可能性があると思っていました。

もちろん、ただのポン菓子ではなく、こだわりを追求しました。1つは瀬戸内海の島々のいろんな素材を原料に使うことです。女木島の落花生や豊島の大豆など、それぞれの島にある特産品を仕入れて、ポン菓子にして高松で販売。その素材にあるストーリーを、ポン菓子を買いに来た人に届けました。

もう1つのこだわりは「おしゃれ」です。バリスタみたいな格好で、ワインの木箱にポン菓子を入れて売ったところ、それが珍しいポン菓子ということで、NHKや日本テレビの「ぐるナイ」で取り上げられるなど受けました。

小豆島での活動は3年ほど。その後、15年に高松に戻り、次は四国全体を盛り上げたいという思いから、「四国食べる通信」を創刊しました。農家や漁師などの現場を取材して情報誌を作成。付録でその人たちが育てた食材を届けるという、食べ物付きの情報誌です。その中で段々と食とか農業の世界に自分の興味がフォーカスされていきました。

── 17年に兵庫県に引っ越した理由は。

四国で活動している時から、週に1回程度、兵庫県篠山市に往復7時間をかけて車で通勤し、地域おこし協力隊の導入支援の仕事をしていました。当時、結婚して子どもが生まれたばかりで、車で事故に遭うリスクなども踏まえると、拠点を絞ったほうがよいと思い始めたのです。

四国食べる通信は自分が始めた仕事なので自分で区切りをつけようと思い、そちらを辞めました。兵庫県に拠点を移して活動を始めた頃、篠山の仕事で縁ができた神戸大学の先生から「大学院の博士課程もあるよ」と声かけてもらったのがきっかけです。

── 大学編の始まりですね。

19年3月に博士課程を修了。研究中に出合った株式会社ワールド・ワンで、今も役員をやっています。そして22年4月、龍谷大学経営学部特任准教授に就任しました。
他の先生と同じように研究室を持ち、ゼミ生もいますが、僕は実務家教員なので、学外での実務を大学での教育に還元することを大切にしています。大学に行くのは週の半分程度。週1回は、ワールド・ワンで経営戦略の構築や新規事業の開発に携わり、残りの時間はぶどう農家の海外進出の支援や京都伏見の酒蔵のリブランディングなど、いろんなローカルビジネスに携わっています。

── 本当に波瀾万丈の人生ですね。

行き当たりばったりです。東大野球部卒なので「文武両道ですね」とよく言われますが、両道できた覚えはありません。1個1個目の前のことを一生懸命やってきただけです。だから、だいぶ遠回りもしています。
小豆島移住や食べる通信の開始まではやりたいことがあって、それを自分で実現しようと考えていましたが、それ以降は割と声をかけられたとか、そういうご縁に従っていた気がします。

自分の人生なので自分なりに腑に落ちた選択をすることにしていて、能動的な選択であろうが受動的な選択であろうが、その選択の理由は明確に語れます。そのため、選択に後悔したことはありません。正しそうな道を選ぶのではなく、どんな道でも「その選択肢で良かったね」と最後に周りに思ってもらえるように努力するのが人生の醍醐味だと思っています。

(2022年7月30日作成)
(2023年6月16日公開)