高高がいな人 – 國末貞仁

高松高校 國末貞仁
高松高校 國末貞仁

國末 貞仁

サクソフォン奏者

サックスとの出会いは小学4年生の時。2年後には、「将来はプロになる」という大きな夢を描くようになった國末貞仁氏。中学、高校では吹奏楽部に所属し、その後、著名な演奏家を多数輩出している難関の東京藝術大学に入学した。
現在、ソロ活動のほか、「Quatuor B(サックス四重奏)」「サキソフォックス」「ブラス・エクシード・トウキョウ」など多くのグループに所属して、サックスを奏でている。今も進化を遂げるサックスプレイヤーの軌跡を追った。


── 音楽はいつ頃からやっていたのでしょうか。

小学1年の時にエレクトーンを習っていましたが、1つ下の妹の方が上手で、つまらなくなり、1年でやめてしまいました。小学4年の時に、隣に住む小学校の先輩が吹奏楽部でチューバを吹いており、高松冬のまつりで演奏するということで、聴きに行きました。その時に演奏していたガーシュウィンの「パリのアメリカ人」の曲中で、ソロでサックスを吹くプレイヤーに心を奪われ、吹奏楽部への入部を決めました。

体験入部に行き、サックスを希望しましたが、「楽器がないから」という理由で、アルトホルンをやるよう先生から言われました。どうしてもサックスを吹きたかった私は先生に食い下がると、「楽器を買うならやってもいい」としぶしぶ認めてくれたのです。そこで買うように指示されたサックスは、なんとヤマハのプロモデルの最高機種で当時24万円。高額だったにもかかわらず、親が買ってくれて、晴れてサックスを演奏できるようになりました。

── 小学校の時に、既に東京藝術大学に行こうという目標があったそうですね。

小学校6年生の時です。吹奏楽部で部長だった私はある日、顧問の先生に職員室に呼び出されました。当時よく怒られていたので、「またか」と思っていると、机の引き出しから1枚のCDを取り出し、私に貸してくれたのです。
後に私の師匠となる、日本を代表するサックス奏者の須川展也すがわのぶや先生のファーストアルバムでした。
聴いて衝撃を受けました。サックスでこんな音が出せるのかと。一気に虜になったのです。須川先生が東京藝術大学卒であることを知った私は、同じ大学を目指すことに決めました。

── 中学時代は部活で吹奏楽部に入部して、コンクールに積極的に参加していたと聞きました。

中学2、3年生の時にはサックスのプロが指導してくれるヤマハのサックスキャンプに参加するために、八ケ岳まで行きました。憧れだった須川先生がいたので、彼のクラスを希望したのですが、かなわず・・・。それでも、なんとか自分のことを知ってもらいたくて、先生のコテージの前でサックスを吹き、猛アピールした覚えがあります。そのかいもあって、「若くて面白い子がいる」という感じで、名前を覚えてもらえました。

それ以降、須川先生が高松のヤマハに来た時には声を掛けてもらえるようになり、その後高校に入ってからは、月1回直接指導を受けることができました。
あと、中学時代は顧問の勧めで、ソロコンテストに出ていました。中学3年生の時には、高松一高の音楽科の生徒を抑えて、香川ジュニア音楽コンクールで1位を受賞。コンクールで良い成績を取って、「俺行けるやろ」という根拠のない自信だけはありましたね。

── そもそもなぜ高高なのですか? 音楽科のある一高という選択肢もあったのでは。

一高に行けば全国大会も近いだろうし、確かに悩みました。そこで須川先生に相談したのです。先生は静岡県の浜松北高校という普通科の進学校の出身で、自分の経験を踏まえて「音楽科では出会えないような人たちと友達になれたのが後に財産となった」と言ってくれました。それで高高行きを勧めたのです。「高高に受かったらレッスンに来てもいいよ」とも言われ、3カ月楽器を弾かずに勉強して何とか入学できたのです。

── 高高時代はどんな生徒でしたか。

高校に入ったら音楽に専念すると決めていたので、勉強は本当に全然やりませんでした。数学の実力テストで3点だったことも・・・。友人のAくんに、赤点パート総長なんてあだ名を付けられたこともありました(笑)。

東京藝術大学の受験は、センター試験で国語と英語が必須でした。それは何とかなったのですが、問題はピアノです。藝大を目指すような人は皆小さい頃からピアノを弾いていますが、私はエレクトーンしか経験してなくて。高校3年生になって吹奏楽部の部長にピアノを教わって習い始めましたが、初めは音符が鍵盤のどこにあるかも分からないレベルでした。よくそんなレベルで藝大受けようとしましたよね。
当時30人ぐらいが藝大を受験し、最終の5人までに残りました。しかし、最終試験で課せられたピアノがやはりダメで不合格でした。親に頼みこんで、浪人になり、何とか次の年に無事合格することができました。

長い伝統を誇る高松高校吹奏楽部(TBB)。
勉強もそこそこに、若き日の國末少年も仲間達と切磋琢磨した。

── 念願の藝大に入学して、大学生活はいかがでしたか。

藝大はやはりすごい人たちの集まりです。一緒に演奏していると、自分の知識不足を痛感することばかりで。また、コンクールに挑戦しても一次で落ちて、挫折感を味わうことも少なくなかったです。特に4年生の時は、精神的に少し病んでいました。授業は特になく、家でいることが多いので、人と話す機会がない。朝から晩までゲーム浸けの日もありました。このままでは、将来思い描いていたプロのサックス奏者になれないのではないかという不安がよぎりました。そこで、大学院への進学を決めたのです。

── 大学院ではどのような活動をしていたのでしょうか。

大学院での2年間は、色々な演奏会に参加するなど自分にとって重要な時期となりました。別府で開催している別府アルゲリッチ音楽祭(世界的ピアニストのマルタ・アルゲリッチさんが総監督)に藝大のオーケストラの一員として共演でき、自信につながりました。
あと大きな転機も訪れました。05年に開催された日本管打楽器コンクールのサックス部門で第3位に入賞したことです。雑誌のインタビューを受けたり、須川先生のオーケストラに呼んでもらったりと、業界で「國末貞仁」が認知されるようになりました。

4 つ子のキツネのサックス四重奏団!?

── 卒業後はすぐにプロとして活躍していたのでしょうか。

コンクールに受賞してから、少しずつ仕事が増えてきました。NHK交響楽団や東京佼成ウインドオーケストラにエキストラとして参加したり、島村楽器の音楽教室で講師をやったりとか。ただ、それでも生活費は不十分で、卒業後半年くらいは、深夜に居酒屋のバイトを続けていました。
プロとして風向きが変わったのは07年です。先輩や友達と「Quatuor B」というカルテット(サックス四重奏)を結成しました。当時、国の公共事業によって多くの公立文化施設が全国各地に作られましたが、なかなか思うように活用されていない状況でした。その状況を打開するために設立された一般財団法人の地域創造が公共ホール音楽活性化事業(通称おんかつ)の登録アーティストの募集を始めていました。そのオーディションに応募して合格したのが「Quatuor B」です。それから2年間、全国各地を回ったことで、少しずつ認知されるようになり、活動が軌道に乗り始めました。30、31歳頃の話です。

── 現在は、複数のグループや吹奏楽団に所属しながら精力的に活動しています。

08年からは「サキソフォックス」という、4つ子のキツネに扮したサックス四重奏団としての活動も始めました。また、「ブラス・エクシード・トウキョウ」という50人編成の吹奏楽団にも所属しています。最近では「吹奏楽が奏でるゲーム音楽シリーズ」が人気で、多くのお客さんが集まってくれます。

プレイヤーとして ただうまくなりたい

── これからやってみたいことは。

もっとソロのコンサートをやりたいですね。今は多くのグループで演奏させてもらっていますが、やはり「國末貞仁」という名前での活動を増やしたいです。16年に銀座のヤマハホールでソロコンサートをして以来、実現していないので、そろそろやりたいです。あと、地元の高松でも演奏する機会を増やしたいです。

── 演奏だけでなく指導する年齢になってきたのでは。

現在、洗足学園音楽大学と京都市立芸術大学で非常勤講師を務めています。自分ができるのは、教え子のモチベーションを高めてあげることです。優しいコメントだけではダメで、その子の将来を考えて指導しなければならない。あとは自己肯定感を高めることも大事だと思います。自分もこれまで自己肯定感を高めてもらいながら教えてもらったので。

東京玉翠会総会プログラムの一環として、現役生とのコラボレーション演奏が実現。
演奏終了後、生徒たちと。

── プレイヤーとしてもっとうまくなりたいという気持ちは今でもありますか。

教えるだけの立場で満足してはいけないと思っています。プレイヤーとしての活動はやはり重視したい。いまだに、ただうまくなりたいという思いだけでやっています。楽器が好きで、上手になりたい──。それを追求したいという思いがやっぱり一番強いです。

── プロになる夢を追い続け、夢がかなってもまだ貪欲に上を目指すのはすごいことですが、モチベーションを保つのは大変なのでは。

「まだまだ自分はできる」「まだ夢の途中だ」と思ってこれまでやってきました。あと、音楽業界で、曲がりなりにも生き残れたということが、自分の支えになっています。周りを見れば、もっといい仕事をしている人はいます。
SNS(交流サイト)で常に周りの活動情報が入ってくるので、「彼ら、彼女らに負けたくない」という思いがエネルギーになっています。元来負けず嫌いですから。あまり見せないようにしていますが。

今の生徒たちを見ると、もっと欲深くていいのではないかと思います。自分が学生の頃は、「絶対この世界で生き残ってやる」と思っていましたから。

── 最後に。音楽とは國末くんにとって何でしょうか。

東日本大震災やコロナ禍では、不要不急と言われて仕事もなくなりましたが、やっぱり自分にとっては、音楽はなくてはならないものです。
「音楽で人に対して何かしてあげる」というのは、おこがましいと思いますが、それで救われる人もいると感じる時もあります。逆に自分が救われることもあります。こういう時、音楽は自分にとって大切なのだと感じます。

(2022年6月21日公開)